
第1章 奥鬼怒から会津西街道湯の旅
第1部 御蔵入(おくらいり)の郷
「御蔵入」とは江戸幕府直轄の蔵入地(天領)のことで、福島県では南会津郡全域と大沼郡の大半、さらに栃木県の一部を含む広大な地域をさす。郡山、会津若松、喜多方、鬼怒川、尾瀬・・・などの主要な観光地とは別に、一歩中にはいると、そこには豊かな山や森が育てた滋養深い「御蔵入の郷」が広がり、緩やかなときが流れている。平穏と静寂と幸せの郷。旅人は山里の豊かさと、心のぬくもりを感じ、日本の原風景にこころおきなくひたることができた。
<奥鬼怒へ>
自宅を6時20分に出発したが、ゴールデン休暇の中日に当たり、インターネットの道路情報は「5月4日・東北自動車道下りの渋滞は早朝から始まる」と警告していた。
練馬大泉から外環道に乗って浦和までは順調に走る。一瞬、このままスムースにいけるのではと考えたが、さすがに車の量は多く、接触事故もあったりして渋滞を余儀なくされた。それでも概ね順調に走って、
8時55分に西那須野インターに到着。
両側の牧場風景を眺めながら、窓を開け、すがすがしい空気を胸いっぱい吸い込む。山道に入り始めたところの「もみじ谷大吊橋」で休憩。周囲の山々は新緑に覆われ、その新緑は春の陽光を一杯に受けてキラキラと輝く。箒川を堰き止めたダム湖は静かにたたずんでいた。
<ハラハラ>
塩原温泉郷の賑わいを通り過ごして開明橋を左折。混みあう日光周辺を避け、北から回り込むルートで奥鬼怒温泉郷「女夫渕(めおとふち)温泉」に向かった。
五十五里湖の先を右にとって「葛老トンネル」を抜けると、満々と水を湛える川治ダムに出た。ここからは奥鬼怒渓谷の渓谷美を楽しみながらのドライブだが、道が狭いため大型車とのすれ違いには危険が一杯でハラハラドキドキでもある。
日光の北側に位置するこの山深い温泉と渓谷の郷へは、気楽に訪れるというわけにはいかない。東京西部の小金井から車で日帰りするには少し遠すぎるのだ。春秋の観光シーズンは渋滞も想像を超える。この日のように時間を気にしないで訪ねる機会は数えてみてもそうあることではない。
<蛇王の滝>
途中、「蛇王の滝」を見るために、渓谷の細い道を数十b下り河原に下りてみた。奥鬼怒の清流は大小の岩を洗いながら激しく流れているが、この流れは上高地梓川の清らかさに勝るとも劣らない。岩間を、水しぶきをあげて流れ落ちる川の対岸の中腹から、蛇王の滝
が一筋の糸となって落ちている。見る人とてだれもいない。こういった光景の周囲にだれもいないという雰囲気がすばらしい。日本の観光地はどこに出かけても人、人、人で埋まり、上高地を例に取れば梓川・遊歩道は銀座の夕方並の混雑を呈する。心を清めるためには世俗の汚れがつきすぎている。その点、名前も知れていない奥鬼怒の清流には人影すらみえず、寂として寞なり。
川沿いの湿地に、白く可憐に咲く二輪草の群落を見つけた。
奥深い山の新緑と清流で身を清めて渓谷を登った。ここまで来れば女夫渕温泉は指呼の間だ。川俣湖、川俣温泉を通って11時50分、女夫渕に到着。

第2部 女夫渕温泉
初めて訪れたが、「関東に残された唯一の秘湯」といわれる山奥の露天風呂である。
女夫渕温泉は、日本随一の温泉噴出量(毎分1200リットル)を誇るまさに温泉天国。ホテルに付属した露天風呂に、金千円なりを支払えば外来入浴客はだれでも入浴できる。ただし2時間。渓流を望む広々とした庭園風呂には福を呼び不老長寿を得ると伝えられる七福神の湯や、洞窟風呂などがあり、贅沢な温泉気分を満喫できる。
< 伝 説 >
ここにも平家落人伝説があり「女夫渕」命名の由来となっている。
壇の浦(1185年)で破れ山奥へと逃げのびたなかに、中将姫という高貴な姫がいた。姫は片時も忘れられない中納言が奥州路に落ちたと聞き、その後を追う。(当時平家の公達で中納言といえば、清盛の三弟門脇宰相・教盛の4子・忠快のみだが・・・)
二人は、鬼怒沼山より源を発する鬼怒川をはさんで、知らず右岸と左岸に別れ、厳しい大自然の洗礼を浴びながら互いを探しあう。そんなある日、長い年月の苦労が報われて、鬼怒川を過ぎ黒沢と本流の合流地点「三音渕」のほとりで、二人はめでたく再会を果たすことができた。これから後、「三音渕」は「女夫渕」となる。八百有余年の歳月が流れた今日も、当時と同じ清らかな瀬音に立ち昇る湯香と共に「女夫渕」の伝説は語り伝えられている。
< 無 常 >
その黒澤から流れ込んだ清流が温泉の渕の岩場を、音を立てて流れている。ゆったりと昼下がりの湯につかりながら流れ下る水を眺めていると、そこはかとなく人の世の無常を感じる。前項にしかり、おごる平家は久しからず。保元・平治の乱を勝ち残った清盛も20年の栄華でしかなく、その後覇権を手にした源氏も、北条に命運をつないだものの頼朝以降はもろくも崩れ去った。
温泉は山奥ゆえのおおらかさが魅力だが、おおらかさも過ぎると見苦しく感じる。

<おおらかな混浴>
この温泉は切り立った崖上の広い岩庭に12の風呂が右と左に分かれて点在する。真ん中にのみ女性専用の「天女の湯」と「布袋の湯」が配置されているが、そのほかはすべて混浴となっている。場内は移動自由だから、ぶらぶらと揺らしながら洗面タオル一枚で前を隠した男性が女湯の周りを徘徊する。人の目が気にならないほどの開放感を感じるとはいうものの、ルール違反の輩の目は獲物を追って左右に動く。
それでも若い人たちは概ねおおらかで、男女のグループは一緒に「白寿の湯」や「小天狗の湯」「弁財天の湯」につかって、はしゃいでいる。女性はもちろん湯衣を体に巻きつけているが男性は小さなタオル一枚きり。ルールとしてはタオルを浴槽に入れてはならない。自信のあるなしがここでものをいうかどうか・・・。若い男女の生態については専門外で、余人にはわからない世界である。
湯は無色透明で細かな湯の花が浮遊している。湯につかっては出、出てはつかる。
晴天に恵まれ温泉浴のみならず、太陽の恵みを一杯に浴びる日光浴、周囲の自然が発するマイナスイオンの森林浴と、三浴を楽しむことができた。1時間ほどのんびりしたあと、併設のレストランでそばを食した。山菜の天麩羅がしゃきっとあげられていておいしかった。
<新緑に咽ぶ>
一風呂浴び、お腹を満足させると眠気が襲うのが常だが、鬼怒川に沿って走る県道「川俣温泉川治線」は狭いうえに七曲のカーブが連続し、路面もでこぼこである。とても温泉の余韻にひたっているどころではない。体をハンドルのうえに覆いかぶさるように置いて右に左にハンドルを切る。目のうえのたるみはいつの間にか消えていた。
川俣・川治と下り、川治ダムを左折し会津西街道に戻った。ここから今晩の宿「湯野上温泉」までは60kmの距離だ。
いつの間にか栃木県から福島県にはいり、阿賀川が右手を平行して流れる街道は、道端の花も色づいて順調で快適なドライブとなった。紅白の芝桜が石垣を伝い、ユキヤナギの純白は涼しく、レンギョウや山吹の黄色が緑のなかで際立っていた。
単線の野岩鉄道「会津鬼怒川線」が会津まで並んで走っている。南会津郡田島町を経て、下郷町にはいった。

第3部 会津西街道
<塔のへつり>
このあたりでは阿賀川を「大川」と別名で呼んでいるが、その大川が蛇行して走る湯野上温泉の手前に「塔のへつり」という名勝がある。

百万年もの長い年月は、強靭な岩の侵食と風化を繰り返し、角の取れた岩の洞窟や独特の高い岩塔を造り出し、それが信仰の象徴となっている。シルクロードのバーミヤンや雲崗で見られる磨崖仏とは違い天然の岩である。「へつり」とは、「山」をカンムリにしてツクリは「弗」と書く特殊な文字で、この地方の方言で「川に沿った断崖や急斜面」を意味する。このことばは北海道でも使われているようだから、あるいはアイヌ語なのかもしれない。
向こう岸にわたる木の吊り橋がかけられていて、ギシギシと揺れる橋を恐る恐るわたり、崖渕の道を奥に進む。大川はちょうどカーブを描いていて、水は深いたまりとなっていた。
< 奇 岩 >
この「へつり」に霊験あらたかな十の奇岩が屹立している。「鷲塔岩」「鷹塔岩」に続いて「獅子・屋形・櫓・九輪・尾形・象・護摩・鳥烏帽子」と命名された高さ10Mを越える塔岩が大川沿いに気高く並んでいるのである。その奥に虚空像菩薩が祀られている。
「虚空像菩薩」と題した一文がかけられていたので抜粋。
虚空像菩薩
抑々当所虚空菩薩ハ 往昔大同二年 坂之上田村磨将軍建立
智慧と福徳とを授け給う 本堂は宝暦三年正月復立せり
嗚呼
清い流れは大川の聖地に 古いともがらと交わりを温め
太古は山気に打ち鍛えられ 青春の純潔に洗いすすがれて
濶然として 目を覚ます思いだ 老いたるは敬うべく 頼むべく
若きは愛すべく 雄々しく凛々しい さらば懐かしい友らよ
合えば別れるのはこの世の掟だが
それゆえにこそ今日のこの日を
喜ぼう 千万の思いをこめて 握手しよう・・・・・ |
なかなかの名文である。
この菩薩の願掛けは「長命 お金持ち 縁結び」とあったがわたしは家族安寧を祈願した。遅い午後、独特の景観を呈する神聖な領域で、不浄を落とし身を清め、宿泊地・湯野上に向かった。


<大内宿は萱の宿>
大内宿は湯野上から5−6km山道を西北にはいる。
午後5時を過ぎていたがその日のうちにどうしても見ておきたかったので、猛スピードで道を急いだ。
「御蔵入の郷」のなかで、数少ない江戸時代の姿を残す街「大内宿」。
1590年(天正18年)4月、豊臣秀吉は小田原攻め(北条氏)で関東を平定したその足を会津まで延ばした。その帰途、白河に向かう途中この大内宿を通ったという史実が残る。しかし本格的な発展は江戸初期に会津藩初代藩主・保科氏が会津と日光、江戸とを結ぶ西街道の拠点として本陣を築いたことに始まる。会津西街道は廻米などの物資の輸送で栄え、会津藩主も参勤交代の際にはこの道を利用するなど重要な街道であった。
<江戸の旅人>
大内宿の特徴は、わずか奥行き300mの両側の家並みにある。雪国特有の重厚で大規模な寄棟造・萱葺き屋根の民家約40軒が、整然と並んでいる。道路は舗装されていないし、電柱も地下に埋められている。この景観はまさに江戸時代のもの。
両側の民家はそれぞれが観光を主とした家業に精を出している。「民宿」「民芸品店」「そばどころ」「だんごや」「会津漆器の店」「よろづや」など、地元の農産物をはじめとして、昔懐かしい細々とした土産品を、軒を並べて販売している。5月連休の観光客は家族連れが多く、楽しそうに軒先に並ぶそれらの土産品を選別している。

地元の老爺に「この建物はいつ頃建てられたのですか?」と訊ねると「多くは江戸時代後期から明治にかけて建築されたもので、300年の歴史を持つものもありますよ。」 と 自信を持った言葉が返ってきた。われわれが訪れた時間は夕闇が迫る直前で、すでに家路に向かう人たちが大半だったが、それでも未だ大勢が古い街道の余韻を楽しんでおり、昼間の繁盛を想像すると、昨今の観光ブームはこの山里に限りない恩恵を与えているようにみえた。
左右の側溝に清流が心地よい音を立て、勢いよく流れている。一服の清涼剤。冷たい水は、飲み物や野菜類を冷やす役割も果たしていて、流れの中に缶ビールやジュースなどがおかれ、格安の値段で観光客ののどを潤していた。ラムネ・ジュース各100円、ところてん200円、地ビール500円也。
最奥の高みから夕景の宿場を見下ろした。
夕日が東側の萱葺き屋根を照らし、絵もいわれぬ光景に呆然と立ち尽くした。江戸の旅人になったわたしがいた。

<<極上の湯>>
古くから豊富な湯量(源泉は8ヶ所)と、大川渓谷沿いの雄大な眺めで知られる湯野上温泉は、会津観光の南の拠点として湯宿の点在する素朴な温泉街。美肌や疲労回復に抜群の効能あり。大川の河原のなかには湯船だけの露天風呂もあり旅情をくすぐる。

今宵の湯宿は街道筋の老舗・清水屋旅館。
ここの露天風呂は4つの異なった湯温の浴槽を備えている。到着後早速入浴。環境や設備については必ずしも印象のよいものではない。会津鉄道の電車が隣を走っていたり、コンクリの打ちっぱなしの浴槽は品に欠けるが、ひとたび浴槽につかれば、温泉はそんなことを感じさせないほど身体に馴染む。
< 宝 珠 >
左手に宝珠を持った立像の、その宝珠から湯が流れ入り、こぼれている。その像について、はじめ庶民救済の観世音菩薩かと思ったが、思いなおした。これは天部の吉祥天だ。吉祥天はほとんどが左に宝珠を持つ。インドで吉祥の意は幸福、中世以降日本では福神としての信仰を受けていたが、後に美人の代名詞となった。これでなぞは解けた。なるほど清水屋の湯は美人の湯であった。
しかしこの露天の風呂は普段は混浴で、女性の入浴時間は午後7時半から8時半までと決められている。タオル類を湯に入れることはご法度だから、意を決してドボンとはいるか、決められた時間にはいるか二つに一つしかない。これほどさように、美人となるための苦労は多い。
早朝5時半に蒲団を抜け出し、朝湯につかった。先客がいた。坊やが父親とその友人とで湯につかっていた。「鈴木さんのおじちゃん!今日もとまるのですか?」「ああ、とまるよ」「わーいわーい、今日もとまるのですって。いいねいいね。」とはしゃいでいた。家を離れ非日常の世界に身をおくことはだれにでも喜びである。
のんびりと朝食をおいしくいただいて、この日の行程を確認。
<栄枯盛衰>
清水屋は1990年に100周年を迎えたというから明治23年の創業。偶然なことにわたしを育ててくれた企業と同じ年齢である。
それを記念して、「花鳥華やか風月の宿」と題した高級ホテル「藤龍館」を新設した。聞けば、最低一泊料金2万5千円という。バブルが華やかなりし頃であったろう。「息子がやっていますが、近頃は景気がこんなでしょう・・・」と女主人は言葉を濁した。

・・・・わたしもそのころのことを思い出した。記念事業として10億円の予算を組み、その後の繁栄を頭に描いて大盤振る舞いに及んだ。日本国全体に贅沢で華美な風潮が蔓延し、乗り遅れたものは意気地なしであり劣等生であると広言された。しかしそんな時代はいつまで続くべくもなく、夢ははかなくも潰えた。今も、その時代に作ったツケを払うのに汲々としているものがいかに多いことか。
かつて家康は贅沢を戒め、吝嗇を旨とした。
好むと好まざるは個人の勝手だが・・・かれはその思想で300年の基礎を作った。
<続く>
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